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投稿日時: 2015-4-1 8:00:00
――ハイランド西部を巡る:ロッホ・ローモンド、トゥロサックス、アーガイル、ビュート

 スコットランドはハイランド地方とローランド地方に分けられますが、この区分ははなはだ曖昧なようです。正式にはインヴァネスより北の地域を北ハイランズとし、アヴィモア、ケアンゴームズからフォート・ウィリアム一帯がハイランドの南部で、離島を含めこのすべてをハイランズおよびアイランズと呼ぶようですが、一般的にスターリングとその北東にあたる古都パースの町を境とし、それより北部と西部をいわゆるハイランド地方とするようです。

 ワーズワス一行は1803年にダンフリーズを出発した後、じりじりとローランド地方を旅し、グラスゴウを経てロッホ・ローモンド、およびトゥロサックス地区に入りますが、時間のなかった私は高速道路M74経由でグラスゴウも通過、二時間ほどでロッホ・ローモンド南のバロックに到着しました。予約しておいたホテルにチェックインの後に、まだ時間があったのでトゥロサックスを見ておこうと、さらに先に進みました。この地区は思いのほか山深く、英国では珍しい日本の山奥のようなつづら折の山道を超えると突然正にハイランドらしい光景が見えてきました。アクレイ湖と対岸のシャトーのような建物です。このような奥地の湖と湖岸の館<やかた>の光景が、廃墟の城や修道院とともに、スコットランドの風景の一つの典型といえましょう。

 ワーズワス一行はロッホ・ローモンド西岸からフェリーでトゥロサックスに入り、当時も今も秘境と呼ぶべきこの地域を一週間ほど巡ります。そこには多くの現地人との出会いがあり、ワーズワスのスコットランド詩が書かれるきっかけとなりました。21世紀の現代でもトゥロサックス地区を巡るには狭い道を通っての旅で数日は必要です。残念ながら日程に余裕のない私はカトリン湖まで至るのも湖上遊覧もあきらめ、ロッホ・ローモンドから西北へとワーズワス一行の足跡を辿り、アーガイル・アンド・ビュートの地区に向かいました。

 ワーズワス一行はターベット、アロチャーからインヴェラレイに向かいますが、体調の良くないコールリッジは旅を切り上げエディンバラに戻ると言い、兄妹とは別れます。しかしその実、彼はこの後一人旅を続け、ワーズワス兄妹が行かなかったフォート・ウィリアムからネス湖岸を経てインヴァネスに至ります。エディンバラに戻るというのは兄妹と別行動をとる口実だったのかもしれません。兄妹の方は馬車を使ってロッホ・オウ、ロッホ・エティーヴを経て、グレン・コーという、虐殺事件の歴史で有名な山岳地域に入り、ここから東に向かいます。ロッホ、またはロックという地名は、湖にも、細長い入り江にも用いますので、ロッホ・オウは湖、ロッホ・エティーヴは外洋に接する細長い入り江です。当時この辺りは水際の陸上を移動するより船で水上を移動した方が便利で、古代にはこの一帯から海の向こうのアイルランドに及ぶ海上王国のダルリアダが栄えたそうです。19世紀の産業革命完成を経て多くの入り江や湖には橋が架かり、便利になりましたが、ワーズワスの時代はフェリーというよりむしろ渡し船もどきを用いていたので、馬車や馬を運ぶのが大変で、ドロシーの記録にはその苦労の様が描かれています。詩人のワーズワスがこの間ずっと巧みに馬車を御していたことにはユーモラスなイメージがあります。


















Loch Achray and Tigh Mor, Trossachs: ヴィクトリア女王も滞在したこの施設は、現在はホテルの役割を西岸のLoch Achray Hotelに譲っているといっていいだろう。



















Loch Lomond between Inveruglas and Tarbet: 対岸の建物があるあたりがワーズワス一行の渡ったInversnaidとみられる。




















スコットランド西海岸沿いの名勝地Inveraray Castle:クラン・キャンベルの首領アーガイル公爵の居城。
新しく、立派過ぎる城はワーズワス兄妹の趣味にはあまりあわなかった。
四隅の円錐状の屋根と3階部分は1877年の火災の後に増築された。ワーズワスが訪問したころの様子はホームページ掲載の絵で偲ばれる。
http://www.inveraray-castle.com/inveraray-castle-history.html



















Loch Awe湖畔北端の廃城Kilchurn Castle:15世紀半ばに初代グレンコリー公サー・コリン・キャンベルが建造。18世紀には廃城となり、ワーズワス兄妹も廃墟の城を訪問して愛でた。
4月から9月まで内部公開、北側のA85道路からアクセスできるが、増水で洪水の時もあるので注意。
http://www.historic-scotland.gov.uk/index/places/propertyresults/propertydetail.htm?PropID=PL_167



















Connel Bridge, Argyll and Bute.
Loch Etive をまたいでいるが外洋につながる入江のため潮の流れが速い。この橋は20世紀に入ってから建設された。このような瀬戸を渡るのに渡し船を使ったワーズワス兄妹は馬が暴れたり馬車が壊れたりして苦労した。



















Glen Coeの山並みとA82道路。
名誉革命の時、ジェームズ二世派の蜂起があり、イングランドにより鎮圧されたがその時にこの地でスコットランド人の虐殺(1692年)があり、現代まで遺恨が感じられる。




投稿日時: 2015-3-31 8:00:00
 近年の両国のゆき詰まった関係を考えてみた。現在のゆき詰まりの直接のきっかけは、2012年9月10日の野田首相による「尖閣諸島」(中国側の「釣魚島およびその付属島嶼(とうしょ)」)国有化宣言であった。

 中国側の態度硬化の原因についていうと、一つは、1972年の国交正常化時に、この問題について「棚上げ」の合意があったとする中国側からすると、日本側の一方的な合意の破棄になること、もう一つは、発表前日、ロシアのウラジオストクで開催されていたAPEC後の廊下の「立ち話」で、胡錦濤国家主席が野田首相に慎重な対応を求めていたその翌日に、国有化宣言がなされ胡主席の面子が丸つぶれになったこと・・・があった。

 両国間には、「尖閣」問題のほかにも、教科書問題、靖国神社参拝問題などがあり、これまでも時々困難な時期に陥ったことがあったが、今回の状況はこれまでで一番大きな規模のものとなっている。

 両国政府のこの間のやり取りを見ていて、あらためて日中関係の難しさを実感させられている。しかし私はこの事態をそれほど悲観的には見ていない。国有化宣言から2年半がたった今、歩みは遅いが歩み寄りの動きがみられる。習近平主席の渋っ面で日本での評判は散々だが、曲がりなりにも両国首脳が「会見」したという事実、これまた「爆買い」などといわれ評判が悪いが、最近の中国旅行者の増加、多くの留学生の存在などなどを考えると少しは希望が持てる。

 これまで毎年9月、一年おきに提携校がある北京と南京に学生と行っており、関係が悪い時期も欠かしていない(親御さんが心配された時にも)。なぜか。日本のテレビで繰り返し、繰り返し、繰り返し中国の反日デモを映しているので、それを見た日本人は中国中が反日の嵐の中にあると思い込むのであって、実際中国に行ってみるとそんなすさまじいことにはなっていず(デモがないということではない)、学生たちはテレビ画面とは違う日常生活が流れる光景に戸惑いを覚えていた。(ちなみに逆も同じで、中国のテレビでは同じ時期、繰り返し日本のナショナリストや右翼のデモを映して、中国人の多くはまるで日本中が反中の嵐のなかと思っていた。)マスコミとりわけテレビの報道については両国間の関係がよくないときには一層よくよく注意が必要と思う。

 どうしたらよいのだろうか。両国の人が「ごくごく普通に」相手のことを考える・・・ということに尽きると思う。どちらにも善人・悪人、右翼・左翼、保守・革新、金持ち・貧乏人がいる。われわれ人間は、ともすると「中国人は・・・」とか「日本人は・・・」とかいってとかく相手を無意識のうちに「自分の価値観」で評価しがちである。その価値観を相対化する必要がある。平たく言えば相手の立場になって考えてみるということである。なんだそんなことあたりまえじゃないかという人がいるかもしれないが、このこと実際には思いのほかなかなか難しいのです。

 これまで多くの中国の学生、中国の留学生にあってきた。優秀な人、それなりの人などさまざまであったが、私は概して好印象を持っている。

 最後に私が体験した中国の「善人」の二つの例を紹介しよう。

 一つ目。北京の地下鉄で私(当時60代後半)が立っていると、座っていた(この人はなんと荷物を二つも膝に抱えていた)中年女性(私の娘ぐらいの年頃)が席を譲ってくれたのである。しばしのやりとりのあと私はありがたく座らせていただいた。かの女性は、荷物を両方の手に持ってさも満足そうに私にほほえみかけたのである。

 二つ目。南京のバスに乗っていて、停留所に到着すると前方にタクシーが止まりその運転手が降りてきて、バスの運転手に猛然と抗議をしてきた。(私の語学力では子細にはつかめなかったが、どうやら無理な割り込みをバスがして危ないじゃないかということらしい)
そのうち、両方が熱くなりバスの運転手が降りて路上でのやり取りになったとき、バスの乗客、停留場にいた乗客(日中の空いた時間なので多くは年配者)が、「みんなで」両者をわけに入ったのである。年配者の取り計らいで両者は少しずつ落ち着き、最後は別れてそれぞれ車に戻り悶着にけりがついた。

 ともに同じことは、「今の」日本の都会では(おそらく田舎でも)まずおこらないだろう。時々中国で私はこの種の体験をしている。中国に来て特に感じ入る時である。そうした中国との関係発展のためにこれからも微力ながら努めてゆきたい。


投稿日時: 2015-3-27 17:00:00
 本学の客員教授をしていただいた作家の楊逸先生の最終講義が今年1月19日(月)に金沢文庫キャンパスで行われました。

 楊先生は中国ハルピン市のお生まれ。1987年に留学生として来日、2008年に「時が滲む朝」で外国人として初の芥川賞を受賞、以後次々に作品を発表してこられました。受賞直後から文学部の客員教授として毎週講義をご担当いただき、大学主催の講演会やシンポジウムに何度もご参加いただきました。





















 今回のテーマは、夏に訪れたシルクロードの旅のお話しで、ウルムチ、トルファン、敦煌、西安のルートです。シルクロードには、西域南道、天山南路、天山北路という大きく三つの道がありますが、今回の先生の旅は北路を軸に砂漠を渡っていく長大なものでした。ウルムチでは、楼蘭の美女と呼ばれるミイラや国際大バザール、トルファンでは、砂漠の地下用水路やウイル族の古集落など、また敦煌では漢代の関所の跡など、シルクロードを辿る旅は、現代から古代への時間の旅でもあります。

 楊先生には、西遊記(中国の明代の長編小説)を現代の日本語で書く構想があると伺いましたが、今回のシルクロードの旅はその取材も兼ねているとのことでした。西遊記は孫悟空などのキャラクターで、日本でも大人気ですが、中国出身でありながら日本語で小説を書き続ける楊先生が、どんな物語を描くのか今からワクワクします。日本語による新たな世界文学を発信する先生の仕事から目を離せません。



















 文学部は本年から、社会学部と国際文化学部となって改めて新たな出発をします。比較文化学科も様々な試みをしていきたいと思っています。異文化との出会い、というキーワードを大切にして。楊逸先生のシルクロードの旅のお話しは、民族・文化そして信仰を考えさせる内容でした。まさに日本・日本語という異文化を生きる現代の小説家の、中国と大陸との新たな出会いの道、それが今回の旅であったと感動しつつ伺いました。

 楊逸先生、ありがとうございました。




投稿日時: 2015-3-25 8:00:00
――ロバート・バーンズ終焉の町、ダンフリーズ訪問

 ロバート・バーンズ(1759-96)はスコットランドの国民的詩人で、日本の歌と思われがちな「蛍の光」や「故郷の空」などの原曲が実はスコットランド民謡で、バーンズがこれらを収集、改作したことも英文学史上では有名です。昨年はスコットランドのイギリス連合王国からの分離独立の住民投票があり、結果は否決でしたがわが国でもニュースで広く伝えられました。また昨年の秋からこの春にかけて、NHKのドラマで国産ウィスキー製造を手掛けた人物の話が取り上げられ、スコットランドは現在日本で静かなブームになっています。しかし実は明治の初めから「イギリス」と理解していた事物の多くが正しくはスコットランド起源であったようです。わが国ではスコットランドとイングランドの区別があまり理解されていないのです。

 イングランドの詩人ワーズワスと妹は、このバーンズがダンフリーズで亡くなった7年後の1803年にスコットランドを旅しますが、ボーダーを横切って最初に訪れた主な場所がバーンズ終焉のこの町でした。バーンズは生前すでに有名だったとはいえ、30代で亡くなった当時はまだ評価がそれほどでなく、ワーズワスにとってはこの頃書いたばかりの「決意と独立(‘Resolution and Independence’)」の中で、名指しは避けたものの不遇の内に亡くなった詩人として悼んだ一人でした。彼は当初ダンフリーズのセント・マイケルズ教会の隅の方に埋葬されましたが、ワーズワスが訪問して後15年近く経た1817年に壮大な霊廟(Mausoleum)が作られ、改葬されました。この間バーンズの評価が大いに高揚したのです。

 8月というのに寒い小雨の朝、ダンフリーズに到着した私は先ずバーンズの墓があるセント・マイケルズ教会を訪れました。チャーチヤードを巡ると端の方に白い立派な廟が見えてきました。そこがバーンズ廟と推定できましたが、近づくと数人の若者がビールの缶を手にしてたむろしています。バーンズの墓はここかと聞くと別の場所を示します。酔っているようなので彼らを避けて墓地の反対側に行き、結局教会の中に入りました。入り口に年配の男女が数人いて、ボランティアで案内をしていました。そのうちの一人の高齢の男性が、私が英語を理解することを確認して教会内部を案内してくれました。彼の説明は主に第一次世界大戦の戦没者慰霊の話でしたが、堂内を一周した後、出口でバーンズの墓のことを聞くと、そちらにも案内しましょうということになり、先ほどの白っぽい廟の所に至りました。ビールに酔った若者数人はまだいましたが、彼と私を見ると慌てて散らかしていた缶を集めて立ち去りました。案内してくれた老人はそれほどの威厳があったようです。彼はさらに霊廟に移葬される前の墓の場所も案内してくれましたが、間もなく別の約束があると、教会の敷地を後にしました。

 セント・マイケルズの前の交差点を渡ると、バーンズの妻ジーン・アーマーの最近建てられた記念碑があります。彼女はバーンズの子を9人産みますが、その最後の子が彼の葬儀の日に生まれ、また他の女性により少なくとも4人の子を儲けていたそうです。彼が亡くなると遺族に全国から注目が集まり、慈善基金が集められ、彼女はその後38年間夫が亡くなったダンフリーズの家に住み続け、遺児を育て、彼の名声高揚に尽しました。今日彼女が住んだ家はバーンズ・ハウスとして美しく改築され博物館となっています。バーンズはその後スコットランドから英国全体、そしてスコットランド系住民の多いアメリカ、カナダで愛され、また翻訳を通じてロシアでも人民の詩人としてソ連時代に賞賛を集めたようです。彼はその晩年、フランス革命を支持し、自由平等を訴える農民詩人としても知られていたのです。


























バーンズの墓があるセント・マイケルズ教会



















1817年建造のバーンズ霊廟



















1796年に亡くなった時のバーンズの墓地跡



















バーンズ・ハウス:ロバートは1791年から亡くなる1796年まで、ジーン・アーマーはその後1834年に亡くなるまでこの家に住み続け、ロバートの霊廟に葬られた



















この像はジーン・アーマーを顕彰して2004年に建てられた



















ダンフリーズの町の中央、グレイフライヤーズ教会前のラウンドアバウトにあるバーンズの大理石像。あいにく手前の歩道が工事中



















ダンフリーズの町を流れるニス川とオールド・ブリッジと称されるデヴォーギラ・ブリッジ


以上写真は全て安藤撮影、2014年8月21日




投稿日時: 2015-3-20 8:00:00
 本年度(2014年度)は一年間、国内研修の時間をいただいた。家から一番近い鶴見大学図書館に通って、研究テーマ関連の資料に眼を通すのが一週間のほとんどの日課になっていた。

 ちょうど六年前にフルブライト留学生としてうちの大学に一年留学していた、マリアン・タルコフさんは現在カリフォルニア大学バークレー校の博士課程に在学中だが、日本学術振興会から奨学金をもらって東大の研究生として六年ぶりに来日していたので、一年の研究期間が私と重なった。彼女は日本近代詩が専門で、なかでも北原白秋を中心とした抒情詩の歴史的変遷を跡付ける研究を行っている。おたがいにテーマは違うものの、詩を専攻しているので、研究の進捗状況を報告するため月一回会っては、アメリカの詩の状況や日本の詩の様子を、おいしいお酒と食事を交えてゆっくり楽しむことができた。
 
 彼女が指導してもらっているエリス俊子先生の研究室で、日本を発つ前の自分の最後の研究発表をぜひ聞いてもらいたいと声をかけられ(こういう発想がわれわれ日本人にはあまりないかもしれない)、公の場で彼女の研究発表を聞くことはもうあるまいと思って、意を決っして初対面のエリス先生の研究室を訪れた。エリス先生を除いた十人くらいの学生(?)は、国際的で、まず中国人の林(りん)准教授はかつてのエリス先生の教え子だったそうで、西脇順三郎の詩学の研究で知られる東大の先生で、ゼミナールに時々参加してくれる重鎮のような存在である。そして韓国からの留学生が二人。アメリカからの留学生が、マリアンさんを含めて三人。残りの四人が、私を含め日本人という割合であった。議論に使われる言葉は日本語であり、詩の専門ではない大学院生も多く参加しているゼミナールで、ともかく活発な議論がとめどなく出てくるのは、すばらしいことだと驚かされた。つまり、留学生たちが母語以外の日本語で、流暢に内容のある専門的な見解を自然に語り合える場を、ゼミナールで実践しているのが印象的であった。
 
 マリアンさんも大学から日本語を学び始めたそうだが、いまでは日本語の文献を独力で読み通す能力も高いが、読むスピードの速さに驚かされる。日本の詩を研究する学者が、アメリカでは極端に少ない限られた人であり、就職も困難であると聞くと、同じ興味を持つ人間としては暗澹たる気持ちになってしまうが、そんなことを物ともせず研究に打ち込む留学生の姿は心を打つものがある。私にとっては大変貴重な経験であった。





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